プロセスに焦点を当てた問い
教室で発している問いのうち、「結果」 を尋ねるときと、「過程(=プロセス)」 を訊ねるときの割合はどのくらいでしょうか。高大接続改革では「答えを出すにはどのようにすればよいか」と解決へのアプローチそのものを焦点とする問いも増えてきそうです。
正解が何であるかを訊ねるときはもちろんですが、「~が~になるのはどうしてか」という理由を聞くときも、実は、思考の「結果」 を引き出しているだけです。
発問に対して生徒が正解したときや間違えたときに、「どうしてそう思った?」 「なぜ、その手順を選んだ?」 と尋ねることがありますが、これが「過程(=プロセス)」 にフォーカスした発問の一例です。
2015/08/20 公開の記事をアップデートしました。
❏ 結果を記憶して再現すれば用が足りるケースは稀
勉強したのと同じ問題が試験に出れば、結果(=正解)を記憶しておいて、それを答案上に再現できればことは足ります。丸がもらえて、点数になって、それを積み上げれば合格です。
でも、同じ問題に再会するのは、稀なケース。狙ったところで出会えるものではありません。
前職で模擬試験を作る仕事に10年以上携わっていましたが、いわゆる「的中」 なんて1年間で数えるほど。出題範囲が決まっている受験でもそんな状態ですから、学校を一歩出たら、そのまま覚えておけば良いことなんてまずないでしょう。
ましてや、高大接続改革以降の入試では、生徒がこれまでに学んだことのない事柄を取り上げ、その場で説明を読ませて問いに答えを考えさせる「学習型問題」も増えてきますので、「正解や解き方を覚えている問題を増やす」という戦略には限界が訪れます。
❏ 正解に至るプロセスとそこで用いた知識や着想
結果は覚えておいても使える場面は限られます。でも、教室で正解を導きだしたときの思考プロセスは違います。
似て非なる問題に対しても、同じプロセスを正しく/ときにアレンジして適用できれば、自ずと正解を導くことができます。(もちろん、考えるために必要な情報[知識」を検索し、新たに入手する必要が生じる場合もありますので、そのトレーニングを積んでおくことも大事です。)
また、プロセス自体も固定したものでは、ひとつのパターンに沿った問題しか解けませんが、プロセスを構成する一つひとつの知識、理解、発想がモジュールとして機能するレベルに達していれば、他のモジュールとの様々な組み合わせで、解決できる課題の範囲が大きく広がります。
知識などがモジュールとして機能するには、
そのために、「結果だけでなく、プロセスも問う」ことで、定着を図り、認識に上らせつつ、その扱い方を学ばせることが重要になります。
これにより、結果を与えるのではなく、課題解決のプロセスを体験させることもできるはずですし、教え込むより、調べさせて気づかせる授業への転換も図れるのではないでしょうか。
❏ それでも、生徒の意識は「結果」に向きがち
生徒の側では、目の前に問題や課題があるだけに、その解を導き出すことが意識の上位にあります。指名されて発言するときも、自分が選んだ答えが正解であるかどうかに気を取られています。
その結果、先生がせっかくプロセスを自覚させる(=生徒自身に言語化させる)ための問いを発しても、その重要性にはなかなか気づきません。問題のヒントぐらいにしか捉えないことだってあります。
言語化できていないことは「勘」の領域に止まり、必要に応じて自在に使いこなすことも、記憶しておいたり他者に伝えたりすることもできません。
ずいぶん昔ですが、いつもより良い成績を取った生徒に、「よく頑張ったね」と声をかけたら、「今日は勘が冴えました」と言われたことがあります。――がっかりしました。もちろん自分に、です。
どんな問題を見ても、明確な理由をもって手順の選択ができるようにと心がけてきたつもりだったのに、生徒の意識は、こちらが思っている以上に、結果に向いています。
❏ 問いそのものを黒板に書き出す
導き出した結果だけでなく、結果に至るプロセス、特に「どうやって着目点を探すのか」「知っている処理手順から1つを選び出すときの方法」 について問いを重ねることに加えて、もう一手を打つべきだったと、後になって気づきました。それが、プロセスを訊ねる質問そのものを黒板に書き出してしまうことです。
板書されたものを、生徒は「重要なもの」と認識しますし、手を動かしてノートに書き取ります。問いそのものが文章になっているわけであり、プロセスを言語化する場面を生徒も経験できます。しかも、黒板に書かれた問いを写すことで記銘が図られ、使うべき場面で生きるようになるはずです。
先生の問いを真似ることは、思考の方法を学び、自分の方法を作り上げていく第一歩だと思います。
生徒に問いを立てさせるための入り口を作るのは、教室で先生が見せる問いそのものであり、結果だけではなく、プロセスを尋ねる場面をどれだけ作れるかが、これまで以上に問われるとお考えください。
お時間の許すときに、下記の記事も併せてお読みいただければ光栄に存じます。
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一
正解が何であるかを訊ねるときはもちろんですが、「~が~になるのはどうしてか」という理由を聞くときも、実は、思考の「結果」 を引き出しているだけです。
発問に対して生徒が正解したときや間違えたときに、「どうしてそう思った?」 「なぜ、その手順を選んだ?」 と尋ねることがありますが、これが「過程(=プロセス)」 にフォーカスした発問の一例です。
❏ 結果を記憶して再現すれば用が足りるケースは稀
勉強したのと同じ問題が試験に出れば、結果(=正解)を記憶しておいて、それを答案上に再現できればことは足ります。丸がもらえて、点数になって、それを積み上げれば合格です。
でも、同じ問題に再会するのは、稀なケース。狙ったところで出会えるものではありません。
前職で模擬試験を作る仕事に10年以上携わっていましたが、いわゆる「的中」 なんて1年間で数えるほど。出題範囲が決まっている受験でもそんな状態ですから、学校を一歩出たら、そのまま覚えておけば良いことなんてまずないでしょう。
ましてや、高大接続改革以降の入試では、生徒がこれまでに学んだことのない事柄を取り上げ、その場で説明を読ませて問いに答えを考えさせる「学習型問題」も増えてきますので、「正解や解き方を覚えている問題を増やす」という戦略には限界が訪れます。
❏ 正解に至るプロセスとそこで用いた知識や着想
結果は覚えておいても使える場面は限られます。でも、教室で正解を導きだしたときの思考プロセスは違います。
似て非なる問題に対しても、同じプロセスを正しく/ときにアレンジして適用できれば、自ずと正解を導くことができます。(もちろん、考えるために必要な情報[知識」を検索し、新たに入手する必要が生じる場合もありますので、そのトレーニングを積んでおくことも大事です。)
また、プロセス自体も固定したものでは、ひとつのパターンに沿った問題しか解けませんが、プロセスを構成する一つひとつの知識、理解、発想がモジュールとして機能するレベルに達していれば、他のモジュールとの様々な組み合わせで、解決できる課題の範囲が大きく広がります。
知識などがモジュールとして機能するには、
- 繰り返し用いることで獲得を確かなものにさせること
- 様々な場面で試させ、使い方に習熟させること
- 自分が、何をどう用いているかを認識させること
そのために、「結果だけでなく、プロセスも問う」ことで、定着を図り、認識に上らせつつ、その扱い方を学ばせることが重要になります。
これにより、結果を与えるのではなく、課題解決のプロセスを体験させることもできるはずですし、教え込むより、調べさせて気づかせる授業への転換も図れるのではないでしょうか。
❏ それでも、生徒の意識は「結果」に向きがち
生徒の側では、目の前に問題や課題があるだけに、その解を導き出すことが意識の上位にあります。指名されて発言するときも、自分が選んだ答えが正解であるかどうかに気を取られています。
その結果、先生がせっかくプロセスを自覚させる(=生徒自身に言語化させる)ための問いを発しても、その重要性にはなかなか気づきません。問題のヒントぐらいにしか捉えないことだってあります。
言語化できていないことは「勘」の領域に止まり、必要に応じて自在に使いこなすことも、記憶しておいたり他者に伝えたりすることもできません。
ずいぶん昔ですが、いつもより良い成績を取った生徒に、「よく頑張ったね」と声をかけたら、「今日は勘が冴えました」と言われたことがあります。――がっかりしました。もちろん自分に、です。
どんな問題を見ても、明確な理由をもって手順の選択ができるようにと心がけてきたつもりだったのに、生徒の意識は、こちらが思っている以上に、結果に向いています。
❏ 問いそのものを黒板に書き出す
導き出した結果だけでなく、結果に至るプロセス、特に「どうやって着目点を探すのか」「知っている処理手順から1つを選び出すときの方法」 について問いを重ねることに加えて、もう一手を打つべきだったと、後になって気づきました。それが、プロセスを訊ねる質問そのものを黒板に書き出してしまうことです。
板書されたものを、生徒は「重要なもの」と認識しますし、手を動かしてノートに書き取ります。問いそのものが文章になっているわけであり、プロセスを言語化する場面を生徒も経験できます。しかも、黒板に書かれた問いを写すことで記銘が図られ、使うべき場面で生きるようになるはずです。
先生の問いを真似ることは、思考の方法を学び、自分の方法を作り上げていく第一歩だと思います。
生徒に問いを立てさせるための入り口を作るのは、教室で先生が見せる問いそのものであり、結果だけではなく、プロセスを尋ねる場面をどれだけ作れるかが、これまで以上に問われるとお考えください。
お時間の許すときに、下記の記事も併せてお読みいただければ光栄に存じます。