自ら学び続けられる生徒を育てる
学校を卒業した後、自ら学び続けていける生徒を育てることは、すべての学校のミッションであり、教科固有の知識・技能をきちんと身につけさせることと同等以上に大切なことではないでしょうか。
科学の進歩や社会の変化で、知識はどんどん生み出され、それまでの考え方はどんどん更新されていきますから、学び続けることこそが「よりよく生きること」を可能にしてくれるのだと思います。
❏ 自ら学び続けるための土台
本稿のタイトルにある「自ら学び続けられる生徒」というフレーズはよく耳にしますが、そうなるためには何が必要なのか、しっかり整理しておかないと、日々の教育活動の設計も方向性を失いかねません。
何かを学ぶには、それを学ぶことへの自分の理由が必要であり、学ぶための方法・方略が身についていなければなりません。
また、広く偏りなく張られた認知の網がなければ、学ぶべきことがそこにあっても気づけませんし、問いを立てる力がなければ、当たり前に見えることを疑うことなくスルーしてしまいます。
このように考えてみると、自ら学び続ける生徒を育てるためには、
❏ 汎用性のある学びの方策
各教科に固有の知識・技能を獲得する中で、生徒は学び方そのものを身につけていきます。
教わったことを覚えることだって、覚え方を覚える大事な機会ですが、それだけでは不十分です。
文字で与えられた情報を図に起こして構造化したり、式に起こして数的に処理できる形に変換する方法を学んだり、わからないことがあったときにどうやって調べれば良いかを学んだりもしているはずです。
教科固有の知識・技能を学ぶ中でで申し上げたように、教科固有の知識や技能を学ぶことはそれ自体が目的であると同時に、学び方・考え方を身につけるための手段でもあると捉えるべきではないでしょうか。
ある単元を学んだ時の方法が、別の事柄を学ぶときに応用できてこそ「汎用性のある学習方策の獲得」という目的を達したことになります。
❏ 学ぶことへの自分の理由
学ぶことへの自分の理由は、見出した興味を掘り下げてみたいという欲求や、学びが自分の夢の実現に必要との認識から生まれるものです。
これの反対語は「他人が決めたこと」ではないでしょうか。
日々の授業の中で不明の所在に気づけば、それを解き明かしたいとの欲求が生まれるのは、別稿で書いた通りです。ひとつの疑念の余地も残さず、きれいに説明を尽くすだけの授業では、この要件は満たしません。
問い掛けることで生徒の頭に疑問符を浮かべさせるところから始めれば、教室は、興味が生まれる瞬間を体験して学ばせる場になります。
小・中学校での横断的/体験的な総合的な学習の時間を経て、高校で取り組ませる探究活動、課題研究は、教科固有の知識を獲得する中で身につけたものを統合すると同時に、大学に進んで学びたいこと、学んだことを通した社会とのつながりといった、「次のステージで学ぶことへの自分の理由」(=志望理由)を見つけるための場です。
❏ 広く偏りなく張られた認知の網
"認知の網の広げ方~5教科7科目をきちんと学ぶ"で書いた通り、人の脳は、知っていることしか認識しません。
授業を通して、学力の向上や自分の進歩を実感できないことには、学び続ける意欲を維持できません。
その結果、その科目を学ぶことから生徒は遠ざかってしまえば、認知の網をそれ以上に広げることができなくなってしまいます。
❏ 問いを立てて考えてみる力
問いを立てるということは、すなわち考えるということです。
当たり前に見えること/教科書に書いてあるから真実に違いないと思えることにも、「どうしてこう言えるのか」「なぜこうなっているのか」と疑ってみることから、より深い理解や新たな発見が生まれます。
日々の授業の中で、どれだけ生徒に問いを立てさせることができているかは、いつも意識しておきたいことの一つではないでしょうか。
社会の変化が加速し、誰も解決したことがない課題が次々に生まれる中で、習ったことだけで対処できることは限られそうです。
"正解を言って欲しい"と言う生徒は、自分たちが生きていく世界が、今の知識で解決できない課題に満ちていることを想像できていないのかもしれません。
探究活動にしても、他人の答えを辿っているだけなら「調べ学習」の領域であり、新たな知を編んだり、未知の課題を解決する方策を考えたりすることにはならないはずです。
別稿「どこに進学させたかよりも、どんな人に育ったか」でご紹介したビジネス誌の記事では、
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一
科学の進歩や社会の変化で、知識はどんどん生み出され、それまでの考え方はどんどん更新されていきますから、学び続けることこそが「よりよく生きること」を可能にしてくれるのだと思います。
❏ 自ら学び続けるための土台
本稿のタイトルにある「自ら学び続けられる生徒」というフレーズはよく耳にしますが、そうなるためには何が必要なのか、しっかり整理しておかないと、日々の教育活動の設計も方向性を失いかねません。
何かを学ぶには、それを学ぶことへの自分の理由が必要であり、学ぶための方法・方略が身についていなければなりません。
また、広く偏りなく張られた認知の網がなければ、学ぶべきことがそこにあっても気づけませんし、問いを立てる力がなければ、当たり前に見えることを疑うことなくスルーしてしまいます。
このように考えてみると、自ら学び続ける生徒を育てるためには、
- 広く応用できる学びの方策
- 学ぶことへの自分の理由
- 広く偏りなく張られた認知の網
- 問いを立てて考えてみる力
❏ 汎用性のある学びの方策
各教科に固有の知識・技能を獲得する中で、生徒は学び方そのものを身につけていきます。
教わったことを覚えることだって、覚え方を覚える大事な機会ですが、それだけでは不十分です。
文字で与えられた情報を図に起こして構造化したり、式に起こして数的に処理できる形に変換する方法を学んだり、わからないことがあったときにどうやって調べれば良いかを学んだりもしているはずです。
教科固有の知識・技能を学ぶ中でで申し上げたように、教科固有の知識や技能を学ぶことはそれ自体が目的であると同時に、学び方・考え方を身につけるための手段でもあると捉えるべきではないでしょうか。
ある単元を学んだ時の方法が、別の事柄を学ぶときに応用できてこそ「汎用性のある学習方策の獲得」という目的を達したことになります。
❏ 学ぶことへの自分の理由
学ぶことへの自分の理由は、見出した興味を掘り下げてみたいという欲求や、学びが自分の夢の実現に必要との認識から生まれるものです。
これの反対語は「他人が決めたこと」ではないでしょうか。
日々の授業の中で不明の所在に気づけば、それを解き明かしたいとの欲求が生まれるのは、別稿で書いた通りです。ひとつの疑念の余地も残さず、きれいに説明を尽くすだけの授業では、この要件は満たしません。
問い掛けることで生徒の頭に疑問符を浮かべさせるところから始めれば、教室は、興味が生まれる瞬間を体験して学ばせる場になります。
小・中学校での横断的/体験的な総合的な学習の時間を経て、高校で取り組ませる探究活動、課題研究は、教科固有の知識を獲得する中で身につけたものを統合すると同時に、大学に進んで学びたいこと、学んだことを通した社会とのつながりといった、「次のステージで学ぶことへの自分の理由」(=志望理由)を見つけるための場です。
❏ 広く偏りなく張られた認知の網
"認知の網の広げ方~5教科7科目をきちんと学ぶ"で書いた通り、人の脳は、知っていることしか認識しません。
自分の生き方を変えるような重要な情報に触れても、それまでの学びがカバーせず「認知の網」が形成されていない領域では、その価値や意味を捉えることができず、情報を捕えて利することすらできないということです。新たな知が生み出されるスピードがどんどん上がる中、様々なところに分散する知識を必要に応じて集めて利用するにも、広く張られた認知の網が重要な意味を持ちます。だからこそ、すべての科目で確かな学びを実現して、教科固有の知識を着実にものにさせていく必要があります。
授業を通して、学力の向上や自分の進歩を実感できないことには、学び続ける意欲を維持できません。
その結果、その科目を学ぶことから生徒は遠ざかってしまえば、認知の網をそれ以上に広げることができなくなってしまいます。
❏ 問いを立てて考えてみる力
問いを立てるということは、すなわち考えるということです。
当たり前に見えること/教科書に書いてあるから真実に違いないと思えることにも、「どうしてこう言えるのか」「なぜこうなっているのか」と疑ってみることから、より深い理解や新たな発見が生まれます。
日々の授業の中で、どれだけ生徒に問いを立てさせることができているかは、いつも意識しておきたいことの一つではないでしょうか。
社会の変化が加速し、誰も解決したことがない課題が次々に生まれる中で、習ったことだけで対処できることは限られそうです。
"正解を言って欲しい"と言う生徒は、自分たちが生きていく世界が、今の知識で解決できない課題に満ちていることを想像できていないのかもしれません。
探究活動にしても、他人の答えを辿っているだけなら「調べ学習」の領域であり、新たな知を編んだり、未知の課題を解決する方策を考えたりすることにはならないはずです。
別稿「どこに進学させたかよりも、どんな人に育ったか」でご紹介したビジネス誌の記事では、
大学の画一化と高校の多様化で、「出身高校こそ人材を見抜く鍵」との声が高まっている。という指摘もありました。人の土台を作る高校時代で何を学ばせ、何を身につけさせるかはこれから先、さらに重要になるはずです。